祖母という大輪を優しく照らした胡蝶蘭

胡蝶蘭は私にとって特別な花です。とにかく花好きの母が、胡蝶蘭を特別に愛でていたということもありますが、それだけではありません。特別だった胡蝶蘭という花が唯一無二の特別な存在となったのは、百寿を迎えた祖母のお祝いに胡蝶蘭の花を贈った思い出が、今も色鮮やかによみがえってくるからです。
百寿のお祝いに胡蝶蘭を贈ったのは、私の中で、胡蝶蘭は特別な花で、特別な時に贈ったり、いただいたりするものだという気持ちがあったからにほかなりません。他のいとこたちとも相談し、お祝いに白い胡蝶蘭を贈りました。百歳になった祖母は、車いすやベッドで過ごす時間が日に日に長くなっていました。九十歳を過ぎても健脚で、先に行った祖父の老老介護を気丈に行ってきた祖母でしたが、骨折したことをきっかけに数年前から身体が弱っていったのでした。
そんな祖母は、孫たちから贈られた胡蝶蘭の花をとても喜んでくれました。でも嬉しい時間をもらったのは私たち贈り手の側だったのです。というのは、胡蝶蘭の花を目にした途端、弱っていた祖母の体に生気が戻り、生き生きとした表情が戻ったからでした。いつもベットの上で過ごす祖母が、起き上がり、お気に入りのワンピースを着て、口紅をつけ、胡蝶蘭の花の横に並びます。その瞬間、祖母の目が輝き、華やいでるのがわかりました。祖母の周りがぱあっと明るくなって、まるで光が差したような、今思い出しても不思議な感覚を忘れることができません。胡蝶蘭の美しさもさることながら、いや、それ以上に、胡蝶蘭を眺める祖母の美しさに驚きました。その瞬間、私にとって大好きだけれど、弱っていく「おばあちゃん」だった祖母が、ひとりの女性として歩んできた人生の道のりの長さと深さ、重みに気づかされました。ひとりの女性として生まれ、恋をして結婚し、仕事もしながら何人もの子供を授かり、多くの孫を設けた祖母の人生と美しい胡蝶蘭の姿が重なって見えたのです。そのときの胡蝶蘭は、胡蝶蘭を愛おしそうに見つめる「祖母」という大輪を照らす控えめな花のようでした。
人生の終着駅に向かいつつあると思っていた祖母の凛とした姿は、胡蝶蘭の花以上に美しく華やかで、祖母がつつましく必死で生きてきた百年という歳月の重みを感じさせてくれました。胡蝶蘭という特別な花が、祖母の人生もまた特別な大輪の花であることに気づかせてくれたのです。人生の終盤を「枯れ葉が落ちていくように」と淋しさを込めて表現することがありますが、人生の終盤こそ、その人の人生という花が一番美しく咲くときなのかもしれません。祖母が亡くなって何年も経ちますが、私は今でも、胡蝶蘭という花を見つめる祖母の胡蝶蘭以上に美しい凛とした姿を思い出します。

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